有紀の帰国は2ケ月半後にせまっていた。
その後僕達は有紀の住んでいたノース・シドニーのフラットに一度皆で食事に招待されが、間もなく彼女は勤めていた会社に退職願を出し、念願だった6週間のニュージーランド旅行に旅立って行ったので、彼女のことはその間頭から消えていた。
それよりも僕の方は仕事の方でいろいろ追われていた。ワーキング・ホリデーでこの国に来ているものは、通常パーマネント(正社員扱い)では働けない事になっていたが、オーストラリア人は何も外国人滞在者に関する情報がなかったせいか、たまにパーマネント扱いで雇ってくれることがあり僕の場合もそうだった。勿論その分保障はされるのだが、仕事に対する責任は重くなる。
大体この時働いていたオーストラリアでもメジャーな建設会社にしても、本当は仕事をマジで外国人である僕にくれるなんて思ってもみなかった。日本人のうえに英語力は二流、三流でたどたどしく、オーストラリアの大学の建築科を卒業しているわけでもない。それでもダメモトでインタビゥーを受けに新聞広告に出てたこの会社にいったら、人事部の担当者が、「日本の建築技術はレベルが高いことは知っている。この国のものを見てどう思う。何が違う。」なんて質問をするものだから、ついつい調子に乗って、「イヤー、コンクリートに少しソイビーン・カードが混ざっているのと、補強用の鉄筋に一部竹を混ぜて使っている。」なんて三流のジョークを言ったらそれが受けたらしく、馬鹿笑いをされた後に肩を叩かれて、1ヶ月様子見期間を設けるがやってみろ。ってことになってしまった。
ちょうどこの頃、オーストラリアをバイクで回ろうとして、バイクの試験をモーター・ブランチに受けに行った奴がいて、そいつは試験に受かったんだけど送って来たライセンスがなんと自動車のライセンスで、僕達は「こんなに馬鹿げたくらいおおらかで本当にいいのかな。」ってあきれたものだ。
確かにオーストラリアの人達はおおらかでアバウトなところがあって、僕達はたまにそれに振り回されたりしたが、いざ仕事に入って見ると実は日本以上にハードなのが現実だった。
仕事を貰って3ケ月が過ぎ、現場に通い続けてその現実が確りと僕には見えてきていた。半分この国の人達に対して間違った先入観を持って、白人はあまり働かないなんて勝手な想像をしていた自分だったが、実は就労時間内は実に厳しく、それは日本の比ではなく、また長年の付き合いからくる相手に対する甘えや圧力なんてものが通じる日本のような馬鹿げたものも存在しない。白人の上司連中は実際信じられないくらい下の話を聞いてくれたが、自分が仕事上でミスを犯せばそれまでで、最初の頃と違って僕を珍しい日本人のスパーバイザーなんて顔で見る現場の作業員もこの頃にはいなかったから、言葉が不十分だとか、勝手が分からずなんて甘えは通用しなくなっていた。
以前だと問題が起きるとフォーマンのところに連絡が入り、アシスタントの僕は側で何の問題か一生懸命聞き耳を立てて聞いていればよかったが、この頃には少しずつ僕の方にじかに質問が飛んでくるようになっていた。それをみてフォーマンもたまに現場を空けるようになりだしたので、僕としては一日中気を休める暇がなくなりつつあった。
そのせいで帰り道にボタニック・ガーデンを回って帰ることがあっても、僕は芝生に倒れこむように横になり、そのまま寝てしまうことがしばしばあった。カモメと戯れる余裕すらなくなり自分のことを守るのが精一杯の毎日が続いていた。
本来ならオーストラリアでの滞在を楽しむためのひとつの手段が、この国で仕事を得て働くことであるはずなのに、この頃の自分にとってのそれはすでにその域を超えていた。
有紀がニュージランドからオーストラリアに帰ってきたのは7月の終わりだった。彼女がもうすぐ帰って来るという話は、その少し前に街中でたまたま会ったナオミが教えてくれていたが、自分にとってはそれほど気になることでもなかった。
それに彼女がオーストラリアに帰って来ても、その数週間後には日本に帰国する人なので、まあ最後の別れだけでも言えればいいくらいにしか思っていなかった。
だけど彼女はニュージーランドで買ったお土産を持って、わざわざ僕の住んでいるホステルまで遊びに来てくれた。これには正直驚いた。
「おや、まあ、何でまた。」せっかく僕のために買って来てくれた、ニュージーランドの原住民族、マオリ族のお守りをキーホルダーにしたものを貰ったのに、僕には気のきいたお礼の言葉ひとつも返すことができなかった。
「帰国の日には空港まで送りに行くからね。」それ以外に僕は彼女に何も言えなかったのに、それでもなにか彼女は納得した顔をして帰っていったのだった。
勿論僕は約束どうりその日は空港に見送りに行った。しかし、篤史やナオミ達に囲まれている有紀を、僕は遠巻きに眺めているだけだった。
オーストラリアでの僕達の付き合いといえば、何度か食事を一緒にした位なもので、友達というには少し付き合いが浅いわけだし、これから先の人生でお互いの何かの接点がどこかであるかというと、これまた疑問だった。
それでも何度かは篤史達に写真の輪のなかに入るように進められて付き合ったりしたが、何か自分には場違いなところに来ている感じは拭えないでいた。ただ、僕は空港の雰囲気は好きで、色んな国の飛行機が離着陸を繰り返す外の景色を眺めながら気を紛らわせていたのだった。
そんな時、有紀が何を思ったのか急に辺りを見回し僕を見つけると近づいて来た。
「ショウさん済みません無理させちゃって。週末だからのんびりしたかったのと違いますか。」僕は別にすることもなかったし、気にすることはないと有紀に伝え、それよりも帰国途中でストップ・オバーするタイについての情報を有紀に教えてやった。僕はタイにはそれまでに6度入っているので、有紀が安宿の場所等の情報を確り持っているのかどうかが気がかりだった。
「ショウさん。もしよかったら、これから手紙書いていいですか。当分はあそこに居るんでしょ。迷惑だったらしかたないけど・・・。」
「別にかまわないけど、早く日本のリズムに慣れて、気持ちを切り替えた方がいいよ。帰国してもいつも気持ちは海外だと彼氏が泣くぞ。」これは本心だった。それができずに帰国してすぐに日本を飛び出した人間に沢山会ってきたからだった。
「あとどれくらいこの国に居るんですか。」
僕の持っているビザは、後3ケ月少しで切れるとこまできていた。その間に少なくても3千ドル以上はこの国でセーブしておきたかった。その3千ドルの半分を、ビザが切れた後で計画しているニュージランドへの2ヶ月間の旅と、この国にリ・エントリーするためのビザを取るための見せ金に使おうと思っていた。
ニュージランドを無視すれば、3千ドルもあれば十分アジア経由でヨーロッパまで進める自信はあったが、あまりにも多くの人間がニュージーランドを訪れた後に絶賛するので、僕としてもニュージー訪問ははずせないと思っていた。
ただそうなると、それで使ってしまう金額分をこの国に帰って来て補充する必要があった。通常オーストラリアや欧米のリ・エントリー・ビザを隣国に出て申請しても、よほどの理由でもない限り難しかった。だからニュージーランドに行くことはその後の計画を考えた場合賭けになるし、失敗すればヨーロッパへは行けないと思って間違いなかった。
「そっか。ニュージーに行くんですか。だったら絶対山には入って下さいね。キーウィーの人達は優しいし、あの国の山は本当に美れいですよ。」
「ああ、覚えておくよ。でもそんなことより、俺にはこの国にどうして帰って来るか。そっちの方が心配だよ。うまくリ・エントリー出来たら、来年の6月か7月まではこの国で暮らすことになるんじゃないかな。」
「いいなショウさんは。夢と目的があって。私ももっと沢山の知らない国にこのまま行けたらな。」いいじゃないかやってみれば、と言おうと思ったが、それを言ってしまったら何か彼女がせっかく割り切ろうとしてるものの腰を折るようなことになりそうなので思いとどまった。
「これ、私の実家の住所です。絶対手紙下さいね。きっとですよ・・・。」
そう最後に言って有紀は日本に帰っていった。
その時の僕には、有紀がただ単に僕がこれから訪ね歩くだろう国々のことを教えて欲しいと思っているんだろうなと単純に思ったくらいで、この先僕と有紀の間で手紙で交わされることが2人の人生。特に有紀の人生に大きな刺激と変化を与えてしまおうとは思いもしなかった。
有紀がいなくなり篤史や玉ちゃんも相次いで日本に帰国していった。3月いっぱいまで滞在が許される大学休学中の金ちゃんや堀くん達は相変わらずで、僕も最後の3ヶ月間に仕事上の問題が何も起きないことを願いながら、これから夏に入るオーストラリアの生活をじゅうぶんエンジョイしていた。
その後有紀から届いた最初の手紙は滞在先のタイからだったが、お決まりの絵葉書に普通のことが並べてあるだけの挨拶程度のものだった。送られて来た絵葉書の写真も見慣れたタイの島のありふれた風景で、僕はほとんど見もせずに何かの本の間に挟みこんでしまい、この絵葉書が再び僕の目の前に現れたのは、ずいぶん後になって何かの整理をしている時だった。
そして二度めの手紙は彼女が帰国して、横浜での生活にやっと慣れて落ち着きを取り戻した頃で、僕もニュージーランドを旅するための準備を始めた頃だった。
有紀は両親の仕事の関係で小学校の3年生から中学を卒業するまでオーストラリアにいた。高校は日本の学校を出て日本の大学に進学したが、本人がどうも日本の大学生生活にしっくりこなくてオーストラリアの大学を受験しなおしたらしかった。
そんな訳でオーストラリアでは言葉にも生活にもこれといった問題はなかったようだが、逆にそういった生い立ちをした人間が日本に帰って、日本の社会や生活にうまく馴染んでいけるのかという心配は、有紀自身も持っていたようだった。
二度めの手紙には、帰国して2ヶ月が経ち、オーストラリアで勤めていた会社の取引相手の日本の商社で仕事も始め、少しづつだが生活のリズムもつかめるようになってきたと書いてあった。そして私はこれから色んな意味で自分を変えていかないとならないでしょうねとも書いていた。
僕は日本から来た有紀の手紙に対して、初めて有紀に返事を書いた。
もうすっかりニュージランドに行く準備は出来たこと。もしうまくニュージーランドでオーストラリアのリ・エントリー・ビザが取れなかった場合、今度オーストラリアに帰って来るときはトランスファー扱いで、長くて72時間しかオーストラリアに滞在できないだろうから、最悪の場合を考えて全てのことを処理して出ることなど、殆どが自分の身の回りのことだった気がする。それ以外のことは正直言って書ける余裕がなかった。
本当なら長い間日本の生活にブランクのある有紀の新しい生活に対して、少しでも何らかのアドバイスなり勇気付けができたらよかったんだろうけど、この頃の僕は有紀という対象がそれほど自分に対して重要な人間ではなかったせいか、いろんな意味で彼女に対する接し方が自分勝手だった気がする。
11月末。ビザ切れを待たずに僕はニュージーランドに旅立った。
シドニーとニュージーランド南島のクライストチャーチまでの往復の航空券。オーストラリアに帰ってきてからの出国を証明するためのシドニーからインドネシア、バリ島までの航空券。これを購入するだけで僕の所持金の3分の1が消えてしまった。
あとはニュージーランドにあるオーストラリア大使館でどんな理由をつけてリ・エントリー・ビザを申請するかだけだったが、僕にはひとつだけこれだと思う秘策があった。それは3ケ月前に日本からやはりワーキング・ホリデー・ビザを利用して来て、その後知人の紹介で運良く日本大使館にアルバイトで勤めることができた千恵という女の子をダシに使うことだった。
僕はニュージーランドでの最初の1ヶ月間を、南島の湖や山を中心にクリスマスもニュー・イヤーもふくめて目いっぱいエンジョイした。先の長い旅を計画している僕にとって、金のあまりかからないトレッキングやキャンプなどの自然相手の冒険は、もの凄く魅力のあるものであり趣味でもあったので本当に楽しい時間だった。
それにあの頃のニュージーランドは世界中で最も安全で人の優しい国だと言われていたように、僕達はその恩恵をいたるところで受ける事ができた。定員オーバーでもヒッチハイカーを無理に車に詰め込んで乗せてくれる人。夕方遅くなって荷物をかついで立っていると泊まっていけと勧めてくれる人。素朴で朴とつな人達。先進国と呼ばれる国々で人間性がとやかく言われるようになった時勢に、世界の片隅にこんな国が残っていたなんてと誰もが感じる。ニュージランドはそんな所だった。
そういえば有紀がニュージーランドからオーストラリアに帰って来て、こんな話を僕達にしてくれたことがあった。
彼女は有名なルートバーンというトレッキング・コースに一人で入ったそうだ。普通こういったコースにはツワーが組まれていて、女の子はだいたいがツワーに参加するのに有紀は初めから一人で行こうと決めていたらしく、その理由が単にニュジーランドが安全な国だからというのを聞いて僕は呆れた。
しかし入山2日めに運良く山を守る初老のマウント・レンジャーと知り合いになり、その夜は彼のハットに泊めてもらったそうだ。
夜も更けて彼女が友達に手紙を書いていると、暖炉の傍でその初老の男性は目を閉じてじっと何かを考え込んでいるように見えたそうだ。それで彼女がお疲れですかと尋ねると。彼は「いや、私は今までじっと君が書いている手紙のペンの音を聞いていたんだ。こんな目を閉じれば孤独な空間に押し込められそうな辺境の世界で、人が生み出す音をこうしてじっと聞くのも幸せなものでね。」そう答えてくれたそうだ。
有紀はその言葉を聞いて、久しぶりにえもいえぬ安らぎを感じたといっていた。「何か温かいもので包まれる感じなのよね・・・。」彼女がニュージーランドに行ったらきっと山に入るように勧めたのも、そのことが強く印象に残っているからだった。
僕は南島でひと通りの思いを達成するとニュージランドの首都、ウェリントンに向かった。オークランドにもクライストチャーチにもオーストラリア総領事はあるのだが、海外からの旅行者の数からすると観光的に目玉が少ないウェリントンは少なく、僕からすると温情にすがるための芝居をうつには、ウェリントンのオーストラリア大使館が一番組みやすい相手に感じられたのだった。
勿論僕はビザを申請に向かう前に何度も頭の中でシュミレーションをして、不意の質問にもできるだけ流暢な英語で対応できるように下調べは欠かさなかった。
そうして僕はオーストラリア大使館に臨んだのだが、意外にもことは何の波風も立てずに終わってしまった。対応に出た中年の女性職員は何の疑いも無く僕の話を信じてくれたのだった。シドニーの日本大使館に婚約者がいて、あと最低で3ヶ月間オーストラリアに滞在して、その後2人で日本に帰国予定だという作り話を彼女はまったく疑いもせず信じて、僕に半年滞在可能な観光ビザを出してくれたのだった。
−7−
もくじ MENU